『吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』という、孔子の有名な人生訓がありますよね。
十五歳のことを「立志」、三十歳は「自立」、四十歳は「不惑」、五十歳は「知命」と呼ぶのは、ここから来てるそうです。
この素晴らしい名言ですが、実は一部の解釈が間違っているんじゃないか!?と疑惑が持ち上がっているらしいんです・・・。
孔子って誰?
中国の昔の思想家、哲学者です。紀元前5世紀ごろに生きた人。3,500人もの弟子がいて、儒教の祖と言われている人です。孔子の言葉を弟子たちがまとめた「論語」とか有名ですね。
孔子の肖像画
間違いのポイント
記事タイトルにもあるように、何が誤解なのか。
それは、「四十にして惑わず」の「不惑」の部分なんです。
今まで伝わっていた意味
これまでは、不惑は、四十になれば迷いがなくなり、ふらふら放浪せず、自分の生き方や行動に従い人生を生きてゆけるということだと解釈されてきました。
三十で自立し、不惑を経て、五十に天命をさとり人生を全うする。これが正しい生き方だぜ!くらいのことだったわけですね。
一見、放浪・越境とは対極のこの言葉が、実は放浪・越境を主張してるんだぜ!というのが今回のミステリーです。
不惑の別の意味とは
実は、不惑は不惑でなく、「不或」だったんです。不或とは、「区切らず」の意で、本当は「四十にしてくぎらず」と解釈すべきであるということです。
四十にもなればある程度の成果を出し、自分に自信を持って迷いがなくなるのかもしれないけれども、そこにしがみつかず、新しい領域にチャレンジしていかなければいけないよ、というメッセージらしいんです。
ちなみにこの主張の根拠としては、「惑」という字は、孔子の時代には存在しないためらしいです。だから、音と形が似た「或」だったんじゃないかと言われているんですね・・・なんと、衝撃的w
個人的には不或派だな
僕は不惑より不或の方がいいですねー。しっくりきます。なぜなら、放浪というか越境して、違う世界へチャレンジすることによる学びは非常に大きいと思うからです。
何歳になっても関係なく、過去の経験と成功に縛られて凝り固まるほど、人生うまくいかない気がしますしね。とにかく、僕は「不或」で生きていこうと思います。
・・・でも、ほんとはどっちだったんでしょうか。孔子さーん。
では、また!